横山大観とならび、明治時代の近代日本画界を代表する画家。明治7年に飯田の仲之町に生まれた。日本美術院に参加して岡倉天心の指導を受け、「落葉」「黒き猫」などの傑作を残し明治44年に病没。飯田美術博物館には「菊慈童」をはじめ多くの作品が収蔵されている。
日本民俗学の創始者。兵庫県の出身で旧姓は松岡。東京在住の旧飯田藩士、柳田家の養子となり、本籍を飯田に置いた時期もあった。数回におよび飯田を訪れ、伊那の民俗学徒を指導。阿南町新野の雪祭りや盆踊りを全国に紹介するなど、南信の文化発展にも大きく貢献した。
明治23年に当時の飯田町に生まれる。詩人、文学者、翻訳家として多彩な文芸活動を展開。独特の美意識に貫かれた詩風は高い評価を受け、自ら「ゴスィック・ローマン詩体」と称した。大学教授を歴任し、晩年は郷里で過ごした。第1回飯田市名誉市民に選ばれている。
天保9年に現在の飯田市中央通りに生まれる。幕末から明治にかけて活躍した博物学者。幕府の蕃書調所に出仕し、パリ万国博などで日本の物産をヨーロッパに広めた。明治に入ってからは通産省の前身である物産局を創設。上野の国立科学博物館の設立にも尽力した。
「大造じいさんとガン」「マヤの一生」など400余りの名作を残した動物文学・児童文学作家。明治38年に喬木村阿島に生まれ、大学卒業後は鹿児島県に教員として赴任しながら作家活動を展開。教科書にも多くの作品が採用された。生まれ故郷の伊那谷にもたびたび訪れている。
豊かな感情と知的な純真さで優れた作品を残したアララギ派の女流歌人。明治35年泰阜村平島田に生まれる。高等女学校を卒業後、結婚するがまもなく離婚、帝国女子専門学校に進学するが結核を病んで帰郷。療養のかたわら820首の短歌を残したが、33歳の若さで亡くなった。
明治22年、現在の阿南町帯川に生まれ、東京帝国大学文学科選科(現東京大学文学部)に入学。国文学の研究に励む一方、全国で教鞭をとり、国語教育の指導に携わった。教科書や辞書の監修など多くの業績を残し、国立国語研究所の初代所長も務めた。