武田信玄公が設けたこの関所は、戦国時代から江戸時代にかけて三州街道として、物流の重要な幹線道路上の関所として重要な役割をもっていた。
この道路は、戦国時代には中仙道の間道であり、重要道路で武田信玄が関所を設け厳しい検問を行った伊那谷最古の関所跡です。今の飯田市山本から、梨子野峠を越え、木曽谷へ通じる街道で、後に飯田城主が管理しました。この街道に纏わる物語は、戦国時代よりたくさん伝わっております。
寛文12年(1672)甲斐国塩山の乾徳山恵林寺で、信玄公100年の法要があり、五輪塔と宝篋印塔を修造。その折、武田家ゆかりの人々によって、信玄終焉の地横旗に宝篋印塔が建立されたと伝えられています。
天台宗の古い寺。武田信玄が野田城の戦いで病に倒れ、甲斐へ帰国の途上、駒場の地で亡くなり、その遺骸を安置したのが長岳寺といわれています。遺品として、信玄公の兜の前立て二種が寺宝として所蔵され十三重の供養塔があります。